■モンスター (2003年アメリカ映画 主演 シャーリーズ・セロン)

女はやっぱり痩せててきれいでなければならない・・のかな? 〜愛の狂気にもジェンダーバイアスは潜んでいるのかも・・

<ストーリー>

幼少期に虐待を受けたアイリーンは幼くして売春をせざるをえない状況の中、大人になる。
街娼としての夢も希望も失ったどん底の生活の中で、ついに愛を分かち合えるパートナー(セルビー:レズビアン)とめぐりあう。
セルビーもまたレズビアンである自分が父親に、世間にうけいれられなかったことをきっかけに家をでた少女であった。
二人は人生をやり直す旅に出る。
アイリーンが望んだもの、それはセルビーとのささやかな幸せな生活だけだったのに、その希望までが奪われそうになる。
二人の生活を守るためアイリーンは<怪物(モンスター)>となった…。

全米を震撼させた実在したアメリカ初の女性連続殺人犯<モンスター>をモデルにしたストーリーという説明があちこちの雑誌、サイトにも掲載され、主演のシャーリーズ・セロンがこの映画で2003アカデミー主演女優賞をとった映画です。

<ハリウッドビューティーは不滅??>

それとともにこの映画にかかさずつけられているキャッチコピーは「シャーリーズ・セロンがハリウッドビューティーをかなぐり捨て、13キロ体重を増やし、まゆげをぬき、醜く変身!体を張った大奮闘演技」なのです。
正直シャーリーズ・セロンほどのナイスバディーなお方が13キロ太ったくらいでは、目をそむけるほどの醜女というカテゴリーにはあてはまらないでしょう。まあ、演技でワイルド系、粗暴な女の演技をしていたので、それなりの醜女な雰囲気はあったんですけど。

宣伝文句が主演女優の13キロ増量ばかりに目がむいていることには、違和感をおぼえずにはいられません。。
仮に80キロの女優が13キロ減量してこの役に望んだなら、こんな風な話題にはならないことでしょう。
男優が減量して、マッチョになって登場というのは良く聞く話しですが。

結局は美人がその美をかなぐりすてて演技しているということに価値をおき、そればかりが取り上げられているわけですね。
実在のアイリーンは街娼という設定なので、かなり不健康な太り方をしているはずです。ある広告では、実在のアイリーンとアイリーンを演じるセロン、通常のセロンの三枚の写真が比較のため掲載されていました。
酒びたり、タバコすいまくり、食事もジャンクフード・・だから肌もぼろぼろ・・という街娼をセロンはきちんと表現していたと思うけど、それってある意味プロの役者であればあたりまえなんで、ことさらに「セロン13キロ減量」は「美しくあるべき女性が美を投げ打つ崇高な役作り」というところだけにスポットがあたってるだけ?といういじわるな見方をしてしまうわけです。
つまり、女は痩せてて綺麗だということがもっとも価値がある!〜というダブルメッセージさえも感じてしまいます。

<あのとき〜だったら・・>

悲しいくらいに・・とか、涙がとまらない・・そんなレビューも雑誌、インターネットなどで数多くみました。
しかしひねくれモノのわたしにとっては涙はでませんでした。
反面、胸の奥からふつふつと湧き上がってくる怒りがとめられることができませんでした。
何に対する怒り?それは「もし、〜だったら」「もし、〜であれば」という「たら」「れば」がアイリーンにあれば、彼女の人生はもうちょっとなんとかなったかもしれないんです。

「たら」「れば」・・この場合はなんなのでしょうか?
少しでも愛があたえられていたなら、少しでも教育があれば・・
なにもかも遅いのです。こんな「たら」「れば」日本でも最近よく新聞やニュースで聞きます。でも遅いんです。あとからいくら涙を流したってもう遅いんですよね。

<アイリーンに内在する外見の男と内面の女>

アイリーンはかなり粗野な女性で、娼婦といえばセクシー系という既存イメージからは随分外れた存在になっています。
「こんな男みたいな娼婦にお客はつくんかいな?」という思いさえよぎし、(しかも売春でアイリーンが得るお金は20〜40ドルだなんて)

そのお金でアイリーンとセルビーはモーテルを転々とし暮らしています。
アイリーンとセルビーのカップルとしての役割は「あたしが稼ぐよ」というアイリーンが多分に男役であり、待つだけのセルビーは女役でなのでしょう。しかし、アイリーンはセルビーへの愛のため、売春することがつらくなり、まっとうな仕事につこうとしますが、うまくいきません。

そのうち、生活費に事欠いてくると、セルビーはアイリーンに「なんで街娼をやめたの?」と罵り、「もっとあたしに楽な生活をさせてよ」と泣くのです。
「あんたの為に売春をやめたの」というアイリーンの言葉にセルビーは耳も貸さないし、かといってそれ以外には収入もなく、アイリーンは再び売春で得た金でセルビーを養う・・
あ〜なんか変。ねじくれた恋人の位置関係(ジェンダーバイアス)はエッシャーの錯覚だまし絵みるようで悪酔いしそうになりますね。

粗野で粗暴な振る舞いのアイリーンがセルビーの前ではただ愛されたい女となり、セルビーは子どもっぽいだけの、アイリーンに保護されたい、守られたいだけの存在となる。

アイリーンとセルビーとの関係は恋人というよりはアイリーンからのセルビーへの自己犠牲、無償の愛としか見えない。
それを躊躇なく受け止めるセルビーを見るにつけ、「女同士だから女の気持ちがわかりあえるってもんでもなさそうだ・・」という絶望感にもにた気持ちがわいてきます。

アイリーンはセルビーにあって救われたと思っているようだけど、実際にアイリーンを追い込んだのはセルビーではないかな?
アイリーンの中には”愛に生きる女はこうあるべき、自分もこうあるべき”という価値観があったのか?
そういう自分であるということをあらまほしいとおもったのでしょうか。

結局はアイリーンは罪(殺人)を犯し、さらに罪を重ねてしまい、もう逃げられないと覚悟します。
しかし、愛するセルビーだけは無実の安全な場所へ逃がす(自分とは永遠に会えなくなる)ことを決め、セルビーはあっさり素直にその申し出を受け入れる・・というか、わたしは共犯でないといいきる。

なんなの?このセルビー、女性の心というものを何一つがわかってない!ええとこどりの恋愛しかできないといっても過言ではないキャラクターなのです。なにが、アイリーンをどんぞこから救った愛をわかちあえるパートナーなんだ?と怒りを新たにする次第です。
まあ、見る側にも「女同士だからわかりあえるはずなのに」という思い込みも発生するわけです。

<カップルのあるべき身長差?>

「もし、アイリーンがセルビーにあわなかったらここまで酷い状況には陥らなかったかも」そんなことまで思ってしまいましたが、これはこれで愛の狂気という映画の題材ということなんでしょうかね・・・
さらに、重箱の隅つつきになりますが、アイリーンとセルビーの身長差がこれまたすごい。
セルビーがアイリーンの胸くらいしかない背丈。
抱き合うシーンは日本の少女漫画的身長差・・ああいやになっちゃう。なにもわざわざ・・こんなに身長差をつけなくっても・・
わざとカップルの身長差を強調した演出というのは映画の中では多いですね。


この作品は虐待児の半生を扱いつつ、ジェンダー問題、キリスト教文化社会におけるレズビアンというマイノリティーであるがゆえの悲しさ、貧富の差ー二極化によるホワイトクラッシュ(白人の低辺層)の増加、ベトナム帰還兵問題なども含みさまざまなアメリカ社会の問題を投影しようとしてるけど、投影しようとしすぎてお腹いっぱいという感じがしました。

モンスター公式サイトhttp://www.gaga.ne.jp/monster/
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